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2009年06月 アーカイブ

2009年06月04日

ブゾーニが自説を開陳したときは、夢物語と一蹴

1900年代にブゾーニが自説を開陳したときは、夢物語と一蹴することもできたが、第一次世界大戦後になると、以前の風潮や時代の趣味への嫌悪感や、物質的な理由も手伝って、現実味のあるものとなった。有力な演奏家が徴兵され、ある者は落命し、ある者は障害者として戻ってきたため、以前のような演奏者数が確保できなかった。また、ワイマール共和国やオーストリア共和国では、物価の異常な高騰によって、大オーケストラのために新作を書いても、特例がない限り上演が困難であったという事情もあった。さらに、フランスを経由してジャズがヨーロッパを席巻した。このような状況が音楽の変化を促した。


ストラヴィンスキーとその影響 [編集]
このような状況で、新古典主義音楽の理念を「新音楽」として提示することに成功したのが、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽《プルチネッラ》であった。この作品が新古典主義音楽のあり方として示したのは、小編成のオーケストラによる透明なテクスチュアや、全音階による明朗な旋律に限らない。作者不詳の(ペルゴレージ作曲と伝えられる)18世紀ナポリ楽派の舞曲を用い、これに随所で非機能的な和声をつけるなどの改変を加えている。つまり、ウィーンの古典派音楽ではなく、バロックのイタリア音楽に、理想的な「古典美」の基準を見出しているのである。
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このようなネオ・バロック様式は、ストラヴィンスキーのその後の作品(たとえば《ミューズを率いるアポロン》)だけに留まらず、さらに広い反響を呼んだ。コンチェルト・グロッソを連想させる「管弦楽のための協奏曲」という新ジャンルの開拓や、ヴィヴァルディやバッハの器楽曲に典型的に見出される「紡ぎ出し動機」の利用などである。ショスタコーヴィチの《交響曲 第1番》は、ピアノが入っているものの楽器編成が薄く、その限りにおいて古典的である。またこの作曲家の《ピアノ協奏曲 第1番》は、対照的な独奏楽器群と弦楽オーケストラのために作曲されていて、楽器編成が必然的にバロック音楽を連想させる。ヒンデミットの一連の《室内音楽》は、古風な組曲の現代版とも、またコンチェルト・グロッソの現代版とも理解することが可能である。またパウル・ヒンデミットとバルトークは、無伴奏の独奏弦楽器のためのソナタを作曲することによって、明らかにバッハへの回帰を示している。

フランスにおけるストラヴィンスキーの代弁者は、名教師ナディア・ブーランジェであった。しかしながらブーランジェの直系の弟子のうちで、国際的に成功したフランス人作曲家はジャン・フランセぐらいであり、多くはアーロン・コープランドやエリオット・カーターに代表されるアメリカ人作曲家であった。おおらかな叙情性と古典的な明晰さを保ちながらも、過度の情感に流されず、和声法や調性感がモダンであるという新古典主義時代のストラヴィンスキーの作風は、こうしてブーランジェとその門弟を通じて、アメリカ合衆国で支配的になっていった。いっぽう、半音階的な和声法が結びついた、より晦渋な響きの新古典主義音楽は、エルネスト・ブロッホとその門弟のアメリカ人作曲家によって創作された。

2009年06月21日

土器研究と考古学

日用品として使用される土器は、時期によって、用途や成形技法、形状が変化するため、型式学的研究がなされ、時間を計る物差しとして考古学上の編年の指標や研究の対象とされる。

日本において、層位学的研究を用いて、ひとつひとつの地層から出土した土器の編年研究を、ねばり強く進めたのが、山内清男、八幡一郎、甲野勇らであった。それは1920年頃からはじまり、1935年頃には縄文土器の編年の見通しが立てられ、1937年、山内清男による全国的規模の「山内編年表」が発表された。大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)などの型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要がある。加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼んでいる。この手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
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また、土器は胎土中の岩石や鉱物の組成と出土周辺地域の地質を比較すること(胎土分析)によって、在地的な土器であるか外部から搬入されたものであるか産地を推定すること(産地同定)がある程度可能であり、土器製作集団の活動や移動を示す大きな指標にもなっている。胎土分析、産地同定ともにデータの増加にともない、精度は近年、格段に向上している。

土器の年代は、今ではおおむね炭素14年代測定法が受け入れられている。

時代によって生業や生活様式が異なることから、単純に形態から用途を類推することはできない。縄文土器は、当初煮炊きの道具として生まれたことが土器の表面にこびりついた煤状炭化物や吹きこぼれの痕跡によって確かめることができるが、その多くは深鉢の形状をなしており、これら深鉢形土器は縄文時代を通じて貯蔵、場合によっては子ども用の墓(土器棺)など多用途に用いられた。それに対し、稲作農耕が本格化して、米粒食が普及すると甑(こしき)、鍋、甕などが炊飯や煮炊き具として普及し、供献用ないし食器として椀が登場する。ただし、甕形の土器は縄文時代よりすでに液体などの貯蔵用として用いられており、弥生時代には棺としても用いられており、ここでもやはり形態と用途との対応は一義的ではない。

土器形態に関しては、長谷部言人考案の説が、基準が明瞭なため広く採用されている。それは、口径と高さの値をもととしたもので。

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